Profile
サルバ
さん
代表取締役会長
株式会社カマタテクナスの代表取締役会長を務めるサルバ。
父親が創業した小さな修理業を受け継ぎ、自らメーカー業へと転換。その後、子どもたちへの事業承継を進めながら、後継ぎ支援活動にも取り組むサルバの自身の歩みとアトツギへの想いとは——

幼い頃に感じていた、家業との距離感
——小さい頃から家業を意識されていたのでしょうか?
実は、そんなに意識していなかったんですよね。
私は昭和40年生まれなんですが、当時はみんな大学を目指して受験戦争を勝ち抜く時代でした。親も「いい学校に行って、いい会社に就職してほしい」と思っていたと思います。
うちの父は戦時中に育った人で、高校も中退していました。だからこそ、子どもにはちゃんとした教育を、という気持ちが強かったんでしょうね。
それに、当時のカマタテクナスは、社員が何人もいるような会社じゃなくて、ほぼ父と母だけでやっているような、本当に小さな修理屋でした。「自分が跡を継いで大きくしよう」なんて、正直まったく考えていませんでしたね。
家業との最初の接点、小学生の頃
——とはいえ、小さい頃から現場に触れる機会はあったのでしょうか?
はい。父が46歳のとき、私が小学校2年生の頃に独立したので、夏休みや長期休みのときは会社に一緒に行っていました。電話番みたいなことを手伝ったり、ただ事務所に座って父の商談を黙って見ていたり。そんな風に自然と会社が身近な存在になっていました。
ただ、その時点でも「将来自分がここを継ぐんだ」とはまったく思っていなかったですね。
海外への憧れと、家業への帰還
——大学時代には海外にも興味を持たれていたんですね。
はい。親戚が海外に住んでいたこともあって、私も大学2年生のときにアメリカに渡ったんです。英語に触れたり、海外の空気に触れる中で、どこか広い世界に憧れていたと思います。
でも、27歳のとき、ちょっと体調を崩してしまって。当時働いていた小さな英会話スクールも廃業することになり、「帰ろう」と実家に戻る決断をしました。
そのとき父に「仕事はどうするんだ」と聞かれて、「なんでも探して働くよ」と答えたら、「うちで働くか」と言われて。特別な覚悟があったわけじゃないけど、「雇ってもらえるなら」と、家業に入ることになったんです。
バブル崩壊のなか、ゼロから営業スタート
——家業に入った当初は、どんな状況だったのでしょうか?
私が戻った頃、ちょうどバブルが崩壊した直後だったんですよね。それまで父の修理業はすごく好調だったらしいんですが、バブル崩壊後は一気に仕事が激減していました。
会社に戻って、最初の1カ月ぐらいはとにかく「暇だな」と感じていました。売上もほとんどない。経理のことも何もわからないけど、売れてないのはひしひしと伝わってきました。
「このままでいいんだろうか」と思って、とにかく営業に出ることにしたんです。父から顧客リストをもらって、地図を片手に、一軒一軒回りました。でも、どこに行っても景気は悪くて、なかなか成果にはつながらなかったですね。
手探りで始めた“なんでも屋”時代
——営業以外にも、いろんな挑戦をされたんですね。
はい、本当に「売れるものはなんでもやろう」って感じでした。たとえば、当時世に出始めた携帯電話の販売代理店をやったり、ネットワークビジネスに手を出してみたり。
でも、どれもうまくいかなかった。資本力もない小さな会社が、いきなり新しい業界に飛び込んで爆発的に成功するなんて、やっぱり難しいんですよね。
それでもがいている中で、ふと立ち止まって考えたんです。「うちには何があるんだろう?」って。

強みを見つめ直して──空気圧縮機器への着目
——そこから自社の強みに気づかれたんですね。
ええ。改めて自社を見渡してみたときに、コンプレッサー関連の機器、特に「水を除去するフィルターやドライヤー」の分野に強みがあることに気づいたんです。
コンプレッサーは空気を圧縮する機械なので、圧縮すると水が出る。この水をしっかり除去しないと、機械が止まったり、故障したりしてしまう。そんな当たり前の現象に対して、うちは真摯に取り組んでいたんですよね。
「これを武器にできないか」と思い、大手メーカー品だけじゃなく、自分たちでも製品を作れないかと模索し始めました。
はじめての開発──失敗から生まれた“自社製品”
——製品開発への一歩は、どんなきっかけだったのでしょうか?
展示会で見つけた小さなメーカーの水分除去装置を仕入れて販売してみたんですが、これがクレーム続出で……。「水が取れない」って言われて、何十台も回収する羽目になったんです。
そこで父と一緒に製品をバラして中を見たら、想像以上に簡単な作りだった。「これじゃダメだよな」と。
それで、父が「じゃあ自分で作ってみるか」と言い出したんです。父はもともと発明好きな人だったので、ここから初めての「自社製品」づくりが始まりました。
メーカー業への転換──苦しい2〜3年を乗り越えて
——自社製品づくり、スムーズに軌道に乗ったのでしょうか?
いえ、最初は全然でしたね。修理業の売上は右肩下がり、新しく始めたメーカー業はゼロからのスタート。この二つがクロスするまでには、やっぱり2〜3年はかかりました。
新しい製品を作っても、テストしてもらった先で何度もやり直し。でも、取引先との距離が近かったので、「試してみるか」って言ってもらえることが救いでした。何度もトライアンドエラーを繰り返して、少しずつ完成度を高めていったんです。
そしてようやく、既存事業と新事業の売上が逆転する瞬間が見えてきた──。そこは、本当に長くて苦しい道のりでした。

東京へ、海外へ──広がり続ける挑戦のフィールド
——そこからさらに、販路を広げていかれたのですね。
はい。事業計画を本格的に学び、プレゼンに挑戦する機会を得ました。商工会議所のセミナーで事業計画の作り方を教わったことが、すごく大きかったですね。
数字で市場を調べ、国の統計年報を図書館で読み込んで・・・。「こんなに空圧機器が使われている世界があるんだ」と知ったときの驚きは、今でも覚えています。
その後、経済産業省主導のベンチャーマーケットでプレゼンしたり、海外展示会に出展したり。アメリカや韓国にも出ていって、少しずつ国内外にネットワークを広げていきました。
自社の製品を持って、英語で説明できる強みもあったので、そこが突破口になった気がします。
アトツギとしての覚悟と、事業承継のリアル
——ご自身の子どもたちへの事業承継も進めてこられたんですね。
はい、私が社長になったのは38歳のとき。そこから20年近く、今度は子どもたちへの承継を考える立場になりました。
正直、父との間ではものすごく衝突もありました。意見が違うのは当たり前。でも、親子だからこそ、遠慮なくぶつかってしまう。
それを自分が経験したからこそ、子どもたちには同じ苦労をさせたくないと思っています。
今は、私は「存在を薄くしていく」ことを意識しています。会社の意思決定には口を出さず、でも知識や経験といった無形の資産は、必要なときに差し出せる存在でありたい。それが、次の世代が自分たちの色を塗り重ねていくために、大事なことだと感じています。
アトツギ支援への想い──「長い目で、人が化ける姿を見たい」
——いま、跡継ぎ支援にも関わられていますが、どんな想いで取り組まれているのでしょうか?
アトツギ支援の最大の特徴は、やっぱり「長期視点」だと思っています。
スタートアップ支援は、短期間で結果を求められる世界ですよね。でもアトツギ支援は違う。その人しかいない、替えのきかない存在を、何十年かけて育んでいく。
すぐに成果が見えなくても、その人がいつか「化ける」瞬間に立ち会えるかもしれない。それは本当に、エキサイティングな体験だと思うんです。
そして、支援する側も「無理のない自然体」でいることが大事だと思っています。短距離走ではなく、ハイキングのように、休みながら、一緒に歩いていく。そんな姿勢で、これからもアトツギたちと関わっていきたいですね。